2006年03月26日(日)

クリエイターは「批評されること」そのものを問題にしているのではない

作品を批判すること(naoyaの日記)
いいモノを作るためには適切な批判が必要(Nao_uの日記)
「クソゲー」という言葉を受け止められない人間がゲームを作るな、と言いたい(発熱地帯)

このあたりの話題。ネットにおける批評はどうなのよ問題は常にグルグルバターになりますな。

随分前に俺も近いような話をはてなダイヤリーの方に書いた。そのあとも関連する話題をちょっとずつ書いている。

酷評するヤツに守ってもらいたいルール(Don’t lose your temper)
たった50字で批評気取り?問題(Don’t lose your temper)
otsuneさん日記のフォロー(Don’t lose your temper)

長いので言いたい部分を要約転載すると

現実的な提案かどうかはさておき、俺がやってもらいたいのは、物事を批評するとき、最後に「自分が好きなものを列記する」ということを基本的なマナーにすることだ。俺が言いたいのはつまり、読者の側も批評される側も単純にそいつがどういうものが好きなのかということを事前にわかっていれば「こいつとは趣味や価値観が違うんだな」と納得できるし、変に傷が付くことが少なくなるんじゃないかということだ。別に匿名でもいいんだよ。そいつのハンドルやら実名が知りたいんじゃなくて、批評してくるやつの立ち位置が知りたいだけなんだよね。

当時劇作家の鴻上尚史が言っていたのだが、「えんげきのぺーじの一行レビューは絶対に見ない。少なくとも何か作品を見て語ろうとしたときに、それは一行なんかで書けるものでないからだ」みたいなことを言ってたんだよね(正確な発言や媒体は忘れた)。要するに劇作家である以上、作った作品に対して批評(それが酷評であろうと)されるのは当然ではあるし、その覚悟もあるが、しかし少なくともえんげきのぺーじに書かれているような「カジュアルなレビュー」は批評以前のものだろうと。もちろん50字で喫茶店ダベリング感覚で思いついたことを言いたい(それをサカナにコミュニケーションしたい)だけという自覚がある人は、そういうはてブのコメントについて「批評」なんて大上段に構えた単語は使わないだろう。「作者(リンク先)がどう思おうが知ったこっちゃねーよwww」という人がゆるやかなつながりを持つことで生まれる生ぬるい気持ちよさってのがあるのも何となくは理解できる。俺だって私生活で友人と話してるときはいろいろなものの悪口言いまくりだ(でも俺はさすがにそういうのをネットに持ち込むのはスマートじゃないと思ってるのでやらないわけだが)。ま、いずれにせよ「だべってるだけだよ」という感覚がある分だけ、マシなようは気はする。問題(だと俺が思っているの)は、自覚のない層だ。自覚のない層は多分2種類の人がいて、1つは本当に批評とかそういうものを超えてナチュラルに脊髄反射的なことしか書けない、あるいはネットがどこにおいても2ちゃんねる的みたいなものと思っている人だ。それはある種の確信犯と言えるかも知れないけど、小学生の頃から普通にネットがあってそういうネットの付き合い方してる人には、ネチケットとかそんな古い概念自体が通用しないんじゃないかとも思う。

自分のブログやブックマークページでコメントするなら好きにしてくださいって話で、そんなものをどうにかしようなんて思う方が馬鹿げてる。そうじゃなくて、ブックマークのコメントを一覧形式で閲覧することによってこういう問題起こしがちである側面を持ってることに、俺は(ある意味で他人事ながら)不満を持っているという話であり(自分の書いたものに対して素早く評判をチェックできるって意味では俺自身重宝している部分もあるし、別に俺の書いたものに対して何か言いたいやつは言わせておけくらいの覚悟は持ってますよ。ここはホントに誤解されたくない)、場の在り方として、あのコメント一覧は当然メリットとデメリットがあって、現状デメリットの方があまりにも考えられてないんじゃないの? ということが言いたいだけ

素朴な感情としてネット上で何かに言及するならそれなりに言葉は尽くして欲しいとは思うんだよね。ネタ的なこととか、単純に思ったことを言及相手を気にせず言える風通しの良さがネットにあった方がいいのは俺も分かるけど、そういうのは全部2ちゃんねるに任せちゃうっていう棲み分けを行うとかさぁ。どっかでバランス取った方がいいような気もするんだよね。

この問題を語る上で難しいのは、naoya氏、Nao_u氏、DAKINI氏それぞれの意見が対立しているようでいて、(俺から見たら)全部納得できるところがあるっていうところなんだよね。批評そのものの定義がそれぞれによって微妙に違うし、何が問題なのかというポイントがずれているから、話が噛み合わないのかなとも思う。

ただ、三者に絶対的に共通している意識は「作った作品に対して批判を受けるのがプロであり、それをクリエイターの側が制限しようとするのは愚かなことだ」という原則だろう。そんなもん、プロのクリエイターだったら当たり前の意識として持っていなければいけないものであり、今更それを消費者の側から鬼の首を取ったように「クリエイターの甘えじゃないの?」と指摘するのは、ほとんど意味のないことだと俺は思う。naoya氏が問題にしているのは、作品に対する批判があるのは当然とした上でユーザーの批評の在り方とか、それを醸造する空気を作り出すシステムに対する言語化しにくい疑問みたいなことなんじゃないだろうか。

果たしてゲームの発売日の前から思いこみや前評判による勝手なレビューを付けられてしまうAmazonのレビューシステムはどうなのか。DQNなエントリを書いたブロガーに対して総攻撃を行うために作られたはてなブックマークのPermalinkはどうなのか。2ちゃんねるで日夜繰り広げられる「社員書き込み者」による、ライバル社の製品への誹謗中傷書き込みはどうなのか。

それらはすべて受け手側のリテラシーの問題だよね、と言い切ることは簡単だ。でも、メディアリテラシーなんて簡単に身につけられるものじゃない。人は自分が信じたい情報を信じるし、何となく(あるいは計算づくで)作られたその場の空気に流されるのは基本的に気持ちのいい(楽なこと)ことだからだ。大体、いちいちその情報の信頼性を調べるのに複数ソースを当たって、さらにはネットではわからない部分の情報も含めて検証したりするほどネットユーザーは暇じゃないし、そもそも毎日流れてくる情報の速度が年々速くなっている状況でリテラシーなんて本当に身に付けられるのかという話もあるだろう。

だから、俺は具体的にこういう問題に解決策があるのかどうかはともかく、箸にも棒にもかからない(しかし、悪意だけはふんだんにこもった/悪意はないが読んだ人や批評された側が不快になる)「批評」を、誘発しがちな「場」そして「場の在り方」について疑問を持ち続ける必要があると思ってるし、それがその状態で放置されていていいのか、ということも含めて考えなければいけないと思っている。

興味深いのは、naoya氏のこの発言

何がそんなに頭に来たかというと、単に自分が面白いと思ったものを批判されてるからというわけではないです。そうじゃなくて人が一生懸命作ったものを安易にクソゲーだとかいってボロクソに書く無神経さが許せない、という感じです。

ここに噛みついている人も多いし、誤解を招きやすいところだけどnaoya氏は「一所懸命作った作品を否定されること」を問題にしているのではなく、その批評する「態度」のことを問題にしているはずだ。俺はそれは消費者のリテラシーの問題ではなく、もしかしたら「システム」がそういう態度を誘発しているんじゃないかと考えているし、そういう空気が生まれがちなはてなブックマークの「コメント機能」が嫌いなわけだけど、まさにそういう話が他ならぬはてなブックマークを開発したnaoya氏から出てきたというところに皮肉なものを感じざるを得ない。

あと、こういう話題をすると必ず出てくる反応が「クリエイター様はそんなに偉いんですか?」というお決まりのフレーズだが、こういうツッコミはある一面では正しいし、ある一面では間違っていると思っている。一口にクリエイターといっても作り出すものによってさまざまな違いがある。それは作っている作品のジャンルということではなく、端的に言えば「0→1のクリエイター」と「1→10のクリエイター」には大きな違いがあるということだ。

そして本当の意味で純粋にモノを創り出すことにしか興味がないような純粋な「クリエイター」は、「0→1のクリエイター」の側に圧倒的に多いことも事実である。そして俺はそういう人たちは「偉い」とか「偉くない」とかそういうレベルではなく、単純に「凄い」と思ってるし、そういう人たちがネット上のくだらない中傷によってモノが創れなくなってしまうことはもったいないとも思っている。「それが現実社会だ」「金払ったお客さんたちの意見はどんな意見でも聞くべき」「プロとしての意識が足りない」「本当に自分が創ったものに自信があるならくだらない意見なんか流しておけ」といった意見はどれも正論であり、俺自身その通りだと思うのだが、「0→1のクリエイター」のような人たちがどれだけのびのびと活動できるかで、その国の文化レベルみたいなものが知れるんじゃないの、とも思う俺は今の作品に対して消費者が気軽にモノを言える環境(喫茶店のダベリトークが全世界に、そしてクリエイターに直接読まれることを想定されずに垂れ流されている環境)にいびつな部分を感じてしまうのだ。

人がある作品に触れたとき、「これはクソだな」と思うことは止めようがないし、そんなことを何かの力を使って止めようとするのは単なるファシズムだ(逆の意味でいえば、自分がクソだと思った作品を淘汰するために悪意ある酷評で徹底的に叩き、世の中を自分好みの作品だけにしようとする行為もファシズム的だと俺は思うし、そういう人間は大嫌いだ)。だが、気分に流されやすい消費者が作品に対して安易に責任を取らない言説を垂れ流せるシステムがそのままの形で放置されていいのか、という問題については多角的な面からどうすればいいのか考えられるべきである、というのが俺のスタンスだ。

Amazonのレビューシステムはあんな状態だが、それでも一応Amazon側のスタッフが内容をチェックしてから掲載されている。だが、Amazonとほぼ同じシステムを使ったiTunes Music Storeのユーザーレビュー機能は、俺の推測だが恐らくAmazonが最低限やっているようなチェック作業をしてないのではないか。そのため、楽曲によってはかなり悲惨なレビューがたくさん付いている。単にユーザー側、クリエイター側のリテラシーでそういうレビューは無視すればいいじゃないかというのは簡単だけど、俺はシステム側の工夫である一定レベルまで達していないレビューはフィルタリングした方がいいと思っている。要するに喫茶店のダベリトークレベルの話はクローズドな場所、ネットでいえばSNSみたいなところでやっておけばいいじゃんっていう。もちろん、ダベリトークが全世界に公開されることで生まれる面白さがあることは否定しない。だが、今の状況はそれによる負の面があまりにも考慮されていないのではないか、と俺は思う。そこの部分はどうしたって結論出ないのかもしれない。でも、そこの部分をなあなあにするんじゃなくて常に今後を見据えて考えていく態度そのものが重要なのではないかと思うのですよ。

知り合いの高名な音楽評論家がこの前いみじくも言っていた。「今は消費者が音楽を購入するとき、雑誌の音楽評論よりもAmazonのユーザーレビューの方が信頼される時代だからさ」。自嘲気味に彼は言ったが、良い悪いじゃなくて状況認識として「正しい」と俺は思った。良い悪いじゃなくて、そういう時代。もちろん個々のユーザーレビューを見たときに雑誌の音楽評論よりも優れたユーザーレビューはたくさんあるし、雑誌の音楽(に限らずすべてのジャンルの)評論の在り方も見直されなければならない時期にきているのかもしれない。しかし、それでも評論(以前のものも含めて「レビュー」や「ブックマーク」の場では評論として一緒くたにされてしまう状況を含めて)がカジュアル化した現在の状況がポップカルチャーの制作現場に良い影響を与えているとは俺は思えないのだ。

単なる賞賛より的確な批判の方がクリエイターの次の作品作りにとっては良い材料になるという話も理解できるが、実は「0→1のクリエイター」は、それすらもあまり関係なく自分の衝動でモノを創っているケースも多い。だったらくだらない批判なんかも関係ないだろうという話もあるが、これが逆で批評の名を借りた剥き出しの悪意が自分に向けられることに対して過敏に反応してしまう人もいるのだ。実は「賞賛よりも的を射た批判がクリエイターの糧になる」というのは、俺個人は「1→10のクリエイター」の人たちなのではないかと思っている。俺自身が完全に「1→10」の人間だしね。俺は「0→1」の人たちが気持ちよく創作活動を行ってくれて、それができれば食うに困らないくらいの報酬も彼らにもたらすような「環境」を作れればいいなと思っている。ありきたりな言い方になるけど、そういう環境がなければ文化的な「豊かさ」は生まれないのではないか、みたいな。

音楽の話でいえば、IT技術やネットが進化したことによってインディーが力を得られ、これまでメジャーレコード会社に独占されていた「音楽を消費者に届ける」ということが、自分たちの好きなようにできるようになった。ロングテールのアーティストに「食える」可能性をもたらしたという意味で、IT技術やネットは最大限評価されるべきだろう。しかし、そういうポジティブな面だけでなく、ネットの公共性や、あまりにも簡単にデジタルコピーされて流通してしまう状況が(すべてとは言わないが)「0→1」の(場合によっては「1→10」も含めた)クリエイターたちを苦しめていることも事実である。しかし、それを嘆いたところでAmazonのレビューもはてなブックマークも2ちゃんねるもファイル交換ソフトもなくならないし、もう昔に戻ることはできない。だからこそ今、昔の状況は本当に良かったのか、ということも含めてコンテンツ制作にIT・ネットがもたらしたものの功罪両面を洗い直していく必要があるのではないかと思う。

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