2006年10月19日(木)

槇原敬之×銀河鉄道999のパクリ疑惑問題の件

槇原敬之に「999」盗作騒動(Sponichi Annex)
松本零士氏、槙原敬之に歌詞パクられた(nikkansports.com)

マッキーがパクリ? 普通に考えてそれはねえんじゃないの(少なくともプロの職業作曲家として、あからさまにわかるような「ヘマ」はしないんじゃないの?)と思ったらこういうことらしい。

松本氏が「盗作」と断じているのは、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」――というサビの部分。これが「銀河鉄道999」(小学館刊)の第21巻に登場する「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」というフレーズに「そっくりだ」と主張している。

主語と述語が全然違うんじゃ……。表現としては似てるけど、ただ、これだけ短い文章の中で単語レベルで共通しているから下敷きにして作られたと言われても仕方ないだろうな、と思う部分もある。俺的にはこれはセーフかなぁ。クレジットとかに「Imspired by 銀河鉄道999」とか入れておけば問題なかったんだろうけどね。

この一件に限らず、著作権というのは純粋に財産権の侵害の部分と人格権、もっといえば「アーティストの心の問題」の部分の話がごっちゃにされて語られてしまう現状があるので(著作権保護期間延長問題もそれがまさにそれで、都合良くごっちゃにされて正当性を担保しようという動きと国際協調の動きで攻められているので、なかなか厳しい)、こういう議論をするときは俺は両者をきっちり分けて論じるべきだと思うんだけど(心の問題はそれこそ送り手と受け手それぞれの人によって違うから、共通認識を作ってそれを下敷きにした議論がしにくい。だからこそ法律の解釈で片がつくところは法解釈で話した方がいいんじゃないかと思う。というかそういうことがないといつまでたっても議論が先に進まない)、アーティスト(クリエイター)の側にいた人は今までそういう心の問題を主張できる場があまりにもなくて、それに対する不満が積年の恨みとしてあるから、今まさにこういう問題が紛糾しやすくなっているのかなぁと。

いずれにせよ、個人的にはこれぐらいの話でいちいち目くじらたてなくてもいいんじゃないの。それぐらいは許容していかないとそれこそクリエイターの「創造のサイクル」に余計なリミッターかかっておもしろいもの生まれてこないんじゃ、と俺は考えてしまうのだが、今回の一件は文句を言った松本零士が例の著作権保護期間延長問題で文化庁に要望出している日本漫画家協会の代表として記者会見していることと無関係ではないように思える。ある種の啓発、スポーツ紙とかが取り上げることで、こういう著作権問題自体に注目が行き、我田引水しやすくなるみたいな思惑もあるのかな。わからんけど。

スポニチの記事の中にある槇原事務所側の反論で

これに対し、槇原の所属事務所は「槇原が自分の言葉で作ったもの」と完全否定。「銀河…」を読んだことすらないとし「そこまで盗作呼ばわりされたら、先生の“銀河鉄道”というタイトル自体、先人が作った言葉ではないのかと言いたくなる」と不快感をあらわに。「ぜひ訴えていただいて…」とまで語り、法廷で争うことも辞さない構えだ。

というところ。ぱっと見ると、論点のすり替えというか、まさに詭弁の特徴の1つである「一見関係ありそうで関係ない話を始める」なんだけど、彼らがこの主張を裁判でするのかどうかはともかく、実はここにこの問題の本質が凝縮されているようにも思える。「銀河鉄道物語」も「銀河鉄道999」も言うまでもなく宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」がなければ生まれなかった作品であるわけだしね。もちろん、パクリとかそういうことじゃなくて、古来、創作活動というのは既存の作品を下敷きにして新しい作品が生まれてきたわけだから。

まぁ、今回のケースはマンガ/アニメと音楽の歌詞、という点でメディアが違うし、対象となる部分もかなり限定されているから、創造のサイクルとかそういう話で語れる問題ではなく、純粋に裁判までいくなら裁判所が判断するしかない、ということだろう。裁判までもつれ込んだとき、どっちが勝つのかは五分五分じゃないの? それこそ東京地裁なんかは裁判官によって決まると思う。

となると、松本零士側が裁判を起こすだけのリスク・コストとメリットを秤にかけて、どうするかってことなんだけど。そのときのモチベーションが創作者としての「心の問題」なのか、著作権保護期間延長問題を見据えた「計算」なのか、そのどっちなのかということで展開が変わってくるんだろうなぁ。

著作権保護期間延長問題の話はまた別の機会(近いうち)にしますよ。

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