2006年12月31日(日)

生方則孝氏の住友生命のサウンドロゴ裁判和解報告記事と著作権保護期間延長問題について

朝日新聞で不採用になった原稿。(uBuLOG2)

生方則孝氏といえば、「生福」の一員である。生福は元々DX7などのシンセの音色プログラムを商品として売る、シンセ音色プログラマーのユニットとして有名だったが、実は音楽ユニットとしても一枚アルバムを作っている。打ち込み芸術・プロの作曲性をギャグ・パロディの方向に昇華させた「内容の無い音楽会」は、当然ながら今は廃盤で、ヤフオクなどではプレミアが付いている状況だ。

そんな生方氏の名前を昨年ニュースなどの報道で目にした。住友生命の企業名の「サウンドロゴ」の著作権を巡って同氏と住友生命が裁判までもつれこんだのである。

元々の発端は生方氏のブログ(現在は移転済み)に詳しい。経緯を簡単に説明すれば、生方氏が86年に作った住友生命のサウンドロゴは、8年間オンエアされた。その後10年近いブランクがあり、2004年に再録音されてオンエアされるようになった。

ここで問題になったのが、再録音されたものの著作権だ。この策録音には生方氏は関わっておらず、住友生命はサウンドロゴの作曲者である生方氏に何の断りもなく、再録音(そしてメロディーの改変)を行ったのだ。

生方氏はこのことに対して住友生命に対して抗議したが、あるときから住友生命が態度を豹変。「わずか数秒のサウンドロゴは著作物でないので、再録音で勝手に使用することは問題ない」と通告してきたという。

そしてその後この争いは法廷に場を移すことになるのだが、そのあたりの細かい経緯は生方氏のブログに時系列でアップされている(→Yahoo!ブログ、→さくらのブログ)ので、この問題について深く知りたい人はぜひこちらの読んでもらいたい。メロディーの改変やサウンドロゴの著作物性など、非常に興味深い論点がたくさん入っており、またいかに大企業がクリエイターの創作物に対して軽く見ているかということがよくわかる事例になっている。この裁判自体は今月15日に両者の間で和解が成立した。どのような条件で和解に至ったのか詳細が明らかになっていないが、「住友生命は生方氏の「すみともせいめい」サウンドロゴの制作に関する精神的営為に対し敬意を表明する」ということが和解条項に盛り込まれ、生方氏が「円満解決」とブログで表明していることを考えれば、今後同様のサウンドロゴの著作権紛争が起きた際に一定の参考にすべき事例ができた、と考えて良さそうである。

そして、生方氏は2年近くかかったこの問題に原告として携わった立場から、この事件の総括と現場のクリエイターが不当な条件を企業側から押しつけられている現状をテーマにしたコラムを朝日新聞に寄稿した。が、朝日新聞はこのコラムを「テーマが個別具体的過ぎて普遍性がない」理由でボツにしてしまったそうだ。

生方氏は「音楽やそれに関するものを特別視するこの国の社会の傾向が顕れていると思います」と述べているが、俺自身まったくその通りだと思う。この前の国民会議のシンポジウムのパネルディスカッションにも関連する話題だが、著作権というのは「一部の芸術家に与えられる特殊な権利」ではない。物議を醸している松本零士氏の「そばやうどんは私にも作れる」発言だが、これはある種芸術性の高い著作物を創るクリエイターのプライドや苦労が、このような意識・言葉となって出てしまったものだと俺は思っている。個人的にはまさにこの部分に著作権を語るときの難しさが凝縮されていると思っており、ここを単純に「松本先生は何おかしなこと言ってるんだ」で切り捨てていたのでは、いつまでたっても議論は平行線のままで終わってしまうのではないかと危惧している。

クリエイターが今まで十分守られていないから、保護を厚くしてもらいたいと思うことは、一般の人から見れば「甘え」に見えるかもしれない。が、現状多くの職業クリエイターは「クリエイティブに関われれば幸せ」という、ある種の「クリエイターの人の良さ」だったり、「物を創ることしか考えられない」的な脇の甘さにつけ込まれて、経済的・権利的に十分な見返りを得ていないのも事実である。彼らは「好きでやっていること」とはいえ、それでもやはり長い人生を考えたときに一般のサラリーマンと比べれば多大な「リスク」や「コスト」を支払って創作している(ただし、中には実家が資産家のボンボンで、ある種の道楽としてクリエイティブに携わっている人もいる)。もちろん、どちらが上、どちらが下という話ではない。「社会」全体として考えたときに俺は「どちらも必要」だと考えている。

人によっては「お芸術」なんていらないよという人もいるかもしれないが、少なくとも今は政府が国を挙げて「これからはコンテンツ振興だ」なんて言っている状況になっているわけだから、社会政策・経済政策的にも、コンテンツを産み出すクリエイターが活動しやすい環境をどう整備するか、ということが「社会全体」にとって大きなマターになってきていると言ってもいいだろう。

松本氏も三田氏も、そういう状況の中でクリエイターは今まで辛酸をなめさせられてきたという認識があるのだろう。ようやく「クリエイターの立場」に脚光があたる状況になったきたときに、今までクリエイターから搾取してきた既得権益者は、自分たちの権益を守るための「方便」として、保護期間延長を「クリエイターの立場の保護につながる」というものを持ち出し、彼らにそれを吹き込んだのだ。この問題で本当に「議論」の場に出なければいけないのは、立場はクリエイターで、クリエイターの立場を向上させようと思って保護期間延長をロビーしている松本氏や三田氏ではない。その裏にいるコンテンツの「権利」で商売を行っている「著作権者」たちなのだ。しかし、彼らは絶対にそういう場所で矢面に立つことはせず、お手盛りの文化審議会を通じて静かに、そして巧妙にこうした権利強化を進めようとしている。このあたり小寺信良氏のコラムも併せて読むと状況がよく理解できるだろう。

現場にいる多くのクリエイターが「死んだあとの権利強化なんかより、今俺たちの権利を強化してくれ」と思っているにも関わらず、結果だけ見れば一部の著作者(そしてその遺族)と多くの著作権者しか利益にならず、貧困にあえぐ多くの職業クリエイターの悲惨な状況は変わらない。こういう現実が変わらない限り、いくら政府が「コンテンツ振興」というお題目でさまざまな施策を実行していこうと寒々しい状況は変わらない。

そして、さらにこの問題が難しいのは、末廣恒夫氏が指摘するように「誰もが著作権者であると同時に、利用者である」という構造を抱えているところに加え、「著作物」が音楽・文芸・絵画といった創作性が高いものだけでなく、評論や個人のブログであろうと「均等」に保護されるというところにある。

延長賛成派の主張からは(本当はここに踏み込んで欲しくないだろうが)「創作性の高い著作物」を「そばやうどんレベル」の個人ブログの日記と区別して欲しい、という本音が見え隠れしている。「コンテンツ振興」という問題を社会政策・文化的に捉えたときに、それを峻別するということは1つの方法論・議論としてはアリだと思う。しかし、それならばそう堂々と主張すればいいのだ。そもそも著作権の元になったベルヌ条約だって元々はフランスの文豪ビクトル・ユーゴーが「国の利害や対立から離れて、手を携えて文化遺産を守ろう。文学や美術は国際的にきちんと保護されるべき」と言って制定されたものなんだから。まず間違いなくユーゴーは個人のブログで書かれる日記なんかを「文化遺産として残そう」なんて思ってなかったはずだ。芸術家に特権を与えるべきかどうかという問題は、俺はその国民が「文化」に対してどのような考えを持っているか、誤解を恐れずに言えばどの程度の「民度」があるか、ということなんじゃないかと思っている。しかし、そういう側面が「欧米は70年だから民度が高い」的な思考停止的「誤解」を招いているのも事実だ。そして著作権者たちは巧妙にこの側面を「武器」として使っている。彼らが「欧米標準」を延長の理由としてしつこく主張する裏には「ぶっちゃけ50年の国って発展途上国ばかりだよね。仮にも先進国の日本がそんなレベルでいいの?」的な、日本人の欧米コンプレックスへの刺激が隠されているのだろう。それは圧倒的に賛成派の戦略としては正しい。ただ、当たり前だがこれは差別的感情に裏打ちされているので、彼らは絶対にそういう「本音」は決して口にしない。シンプルに「欧米が70年ですから日本も70年に」とだけ言えば、あとは多くの日本人が「欧米が70年なら日本も70年に」と思ってくれるという計算がそこにはある。松本氏も三田氏も、シンポジウムで「反対派との激しい議論はあまりしたくない」と発言していたが、これは議論をするべき人の態度としては責められるべき面があると思うが、俺がもし賛成派で「このロビー活動を成功させることだけ」を考えるなら、松本氏三田氏のような「情に訴える」やり方を通していたんじゃないかと思う。完璧な理屈で情に勝てるなら、いじめ問題だってもうちょっとましな状況になってるよね。

また、話が複雑というかこんがらがってきてしまったが、とにかくこの問題は、シンポジウムでも明らかになったことだがまだ論点すら出尽くしてない状況なのだ。朝日新聞がこの原稿をボツにしたというのは、一億総クリエイターと言われるこの時代に「生方氏の原稿は一部の『芸術村』のルールをテーマにした特殊な話ですね」と言っているに等しいわけで、あまりの見識のなさに呆れてしまう。少なくともこのコラムは住友生命の裁判の話は話の枕でしかない。生方氏が主張したいのは「個人の権利が企業の論理によって踏みにじられがちな日本の社会構造の問題」だ。他の理由ならともかく「普遍性がない」という理由でボツにするのは、あまりにも想像力が足りない。こういう理屈がまかりとおるなら、著作権の議論はほとんどが普遍性のないものになってしまうのではないか。

まあ、朝日新聞からしたら著作権、著作物の話は「特殊」なものにしておきたいんだろうね。だって間違いなく彼らは著作物においても「エリート」で、「ブログの記事」と自分たちの「新聞記事」が同等に扱われている現状には不満を持っているだろうから。

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